生きることとは, もっぱら二つの極を揺れ動くこと, 世界の基礎をなす二つの極の間を揺れ動くこと, 世界の基礎をなす二本の支柱の間を行ったり来たりすることにある. 世界は至福なる多様性が存在し, この多様性の根底には統一がある. 美と醜, 明と暗, 罪業と神聖さはいつも一瞬だけ対立しているのであって, 常に互いに移行しあっている. 人類にとって最高の言葉は, この二元性が魔術的な符号で言い表された, 大きな世界の対立が必然であると同時に幻想でもあると認識されるあのわずかな神秘的な格言と比喩なのである.
ヘルマン・ヘッセ「湯治客」より改変
この文章では, 死には二つの側面があり, 片方の性質をじっと眺めることにより, 対照的にもう片方の死の必然性が明らかになることを押さえる. このことを通して, “人それ自体に価値がある”ことの大切さを宗教(憲法や大きなプロジェクトの中でも大切さを主張しているのだが)が伝えようとしているのだという主張を行う.
生物学的な死
人の死を考えるとき, 始めに人とは何かを明確にしなければいけない. 人間という生物は他の生物に比べて知能も思考能力も非常に高い, だから人は他の生物とは一線を画した存在であるという論理展開をする人がいる. 僕はいつも, なぜ人が生物の括りから外すような考えをするのかと疑問を持つことがあった. 人は生物である. 地球上で一属一種のホモ・サピエンスである. この事実から論を進めていきたい. 死が持つ一側面として, 生物が死ぬ, その厳然たる事実のみを指し示した言葉として生物学的な死という用語を定義する. 生物がただ死ぬという事象を解釈するためにダーヴィンの進化論を用いていく. なぜダーヴィンの進化論を用いるかといえば地球上で生物の多様性が生まれてくるその説明としてダーヴィンの進化論は妥当性が高いからだ. この理論では, 世界の多様な生物の在りようは突然変異と自然淘汰によって説明づけられると主張する.
まず始めにダーヴィンの進化論に関するダーウィンの言葉を一つ引用し, 死の観点からこの言葉が何を主張するのか確認しよう. 「最も強いものが生き残るわけでない, 最も賢いものが生き残るわけでもない. 最も変化に適応できるものが生き残るのだ. 」 この言葉は自然淘汰の性質を的確に言い表した言葉である. 突然であるがこの言葉が意味するところを形を変えて表すために待遇を用いて表現しなおしてみる. 「最も変化に適応できるものが生き残る」という言葉は簡単にすれば「適応的 ならば 生存」と換言できる. この命題の対偶を取ると, 「死亡 ならば 適応的でない」 といえることになる. つまり, ダーヴィンの進化論の枠組みの中では絶滅していく生物は適応的でなかった, としかいえない. もちろん, ここで指す死は単に個体の死を意味するのではなくある形質を持った個体の集合のことを指すと考えられる. 多くの場合, ある一個体の死が直接的にその個体が持ったある形質が環境に適応的でなかったと結論付けられないことに注意が必要だ. 自然淘汰の下では, ある形質が支配的になった時を持ってその環境の下では少なくともその形質は適応的であるとしか言えない.
生物学的な死の意味を明確にするため, 具体的に突然変異と自然淘汰がどのように多様な形質を生み出し, 死んでいく個体にどのような意味付けが出来るかをコウモリと蝶の生存競争の例を使ってみていく. コウモリはエコーロケーションと呼ばれる高い周波数の超音波を用いる. 周囲に超音波をばら撒き, 蝶の翅特有の音の反射パターンを捉える. ここで生存競争の争いが始まる前に初期状態を定めなければいけない. なのでここでは, コウモリと蝶はお互いに均衡を保っているとする. つまりコウモリが自らの生存を満たすだけの蝶を捉えることができ, 蝶はコウモリによって絶滅されもせず爆発的な増加も見られない状態であるとする. この均衡を保った生存競争のもとで, 突然変異により毒を持っている蝶が現れたとする. この毒を持った蝶はコウモリに食べられることによってコウモリの数を減らす. 次第にコウモリは毒を持っている蝶によって数を減らされていく. だが, コウモリの中には毒を持った蝶を食べることを避ける形質を持つものが偶々いた. このコウモリは, 蝶を選ばずに食べるコウモリに比べ生存する可能性が高く, 子孫を残しやすい. 従ってが経つと毒を持った蝶を避けるようになったコウモリと毒を持った蝶が生き残ることになる. これはそれぞれの形質が独自のニッチの下で適応度を大きくしていくように進化している例だ. しかしながら, この状態のままだと毒を避けて食べるコウモリは毒のない蝶を食べ尽くしてしまう. そこで, コウモリの中から, 蝶がもつ毒に耐性がある形質や蝶以外の昆虫や動物を食べる形質を持つものが現れる. この形質は環境に適しているために子孫を残し数を増やしていく. こうしてコウモリは蝶との生存競争の最中に蝶から一歩リードを奪った状態になる. 蝶はコウモリによって再び数を減らされていくが, 生き残っていく個体はコウモリから逃れられる形質を持った蝶ばかりとなっていく. 例えば, コウモリのエコーロケーションに引っかからない模様をした翅の形質や個体のサイズが非常に小さい形質, 毒を持った蝶の超音波を返す形質(いわゆる擬態)など多様な形質が蝶の中に現れてくる. ここまででコウモリと蝶の二種間の生存競争に主眼を当てたにも関わらず自然淘汰によって様々な形質が現れることが見て取れる. この一連のプロセスを死んでいく個体に焦点を当てて捉え直してみる. 最初に述べた毒を持った蝶を区別できないコウモリはこの例では絶滅していくだろう. なぜならこのコウモリに対し, 捕食されないように蝶が多様な形質を発展させていったからだ. 一個体のコウモリが死んでいってしまうことは, 最初に述べた生物学的な死を表している. この生物学的な死はその死一つだけでは何も述べることができない. その個体がもつある形質が環境に適さなかったかどうかは, その形質が後に特定の環境下の中で広まっていって初めて適応的であったということが出来る. だが, 少なくともその種が環境に適していたかどうかは絶滅を確認するか, 少なくとも数世代は時間を経ない限りは判断することができない. この生物学的な死を人間に対して考えてみると少なくとも人間が絶滅しない限りは, 人間の寿命の中ではある個体の形質が環境に適しているかどうかは決して言うことができない. すなわち, 人間自身は身近に起きた生物学的な死にはダーヴィンの進化論の枠組みの中では意味を汲み取ることができないのだ.
個体レベルの死を見つめる時に注意しなければいけないことは, 死んだからといって完全に環境に適応出来なかったどうかは分からない. 寿命で死んだり,環境に非常に適した形質を持ったがたまたまある個体に見つかり死んでしまう可能性はある. ある形質が環境に適したものだったかどうかは, 個体レベルではなく集団レベルでその形質が持っている個体が特定の環境下にどれくらい存在するかによって図られる. 全体の集団の中で単に数的に多い形質が環境に適した形質であるという主張は間違いであることが多い. 例えば火山性ガスが吹き出す深海の付近に生存する細菌は地球全体に存在する細菌に比べれば少ない部類に入るだろう. だが, 特定の環境下に適した生存戦略を取り, 適応度を上昇させることができたと言えるだろう. これも再び人間に当てはめて考えてみれば, さっきの例とは逆に人間の生物学的な死の側面においても適応的でなかったということもできないのである.
求義的な生死
生物学的な死と対比される概念として求義的な生死を提唱する. 求義的な生死とは, 生や死に生物学的な死が含有する意味以上に何らかの意味付けを行おうとする時の対象としての生と死として定義する. 人間の中では言葉という形で生にも死にも意味が与えられていることが明確に分かるが, この言葉が対象とする生死は人間に限った話ではない. 動物や昆虫, 細菌に対しても用いることが出来る. 生物は様々な場面で求義的な生死を取り扱う. 生物は自分に必ず意味付けを行っている. それは, 細菌やカマキリ, ゴキブリも例に漏れない. なぜなら, もし自分に意味付けがなされていないとするならばその生物は自分の命を大切にせずに自分を生存させるような行動を取らなくなってしまうだろう. これは, その生物自身が自身に与えている意味付けに気づいているかどうかとはまた別の話である. 生物は哺乳類や鳥類で見られる子供を育てる行為は, 子供に意味付けを行っていると言える. であるからこそ, 子供に餌を与え, 狩りの仕方を教える行動を起こす. イルカやゴリラなどに見られる群れで行動する行為は, 群れの仲間に意味付けをしているといえる. それが陽か陰の感情かはさておき, 何らかの意味付けを一緒に行動を共にする個体に与えるからこそ, 共同体として行動したり, 食事を共にしたりする. ここで用いられる”意味”という言葉には注意が必要だ. 生物がその生死に意味付けをすると行った場合, その意味は, 意味付けを行った対象に何らかの行動を起こすことを指しているに過ぎない.
求義的な生死は人間の中では強く意識されている. 求義的な生は今, 世界で強く主張されている. それは, 飢饉, 疫病, 戦争を攻略することに大きく成功し, 今まで余裕がなく手がつけられなかった認知症の人, 貧困者, 障害者, 性的マイノリティなどに関する問題に声を上げるようになっている. その中で主張される生の大切さ, 助けるべき対象として取り上げられる抽象的な生. そのような生を求義的な生としてここでは述べている. Millennium Development Goals に続いて提唱されたSustainable Development Goalsでは様々な分野での達成目標が掲げられた. SDGsの合言葉は “No one will be left behind.” である. この取り残さない対象と言った時の人や人の命は求義的な生であり, 人の命に意味が何らかの意味があると主張し, 何らかの意味付けがされているからこそ, その命は助けられるべきものとされている. 人間は人間の生にだけに意味付けをするのではない. 人獣共通感染症の領域では人間だけではなく野生の動物, 環境に意味付けをすることで動物や環境を健康にしようとする動きが始まっている. これはOne Healthと呼ばれる. 近年, 感染症領域で問題になるような感染症は動物や昆虫由来の感染症が多い. これらの感染症は宿主が人間ではなかったために, 人間がその感染症に対する免疫機構が一切持っておらず重篤化しやすくなるからだ. このような感染症は人から人への感染力を得て効率よく人間の間に広がるようになると多くの死亡者が出るようになる. 環境も健康でなければいけない一例としては,環境の大きな変化がによって熱帯の感染症が今まで温暖な地域にまで広がることが挙げられる. デング熱は熱帯での感染症の代表的な例であり, ネッタイシマカやヒトスジシマカによって媒介される. これらの蚊の生息範囲は熱帯地域に限られていたが近年の温暖化の波を受けて生息範囲が拡大している. 日本においても最も北にある件北海道にも生息範囲が広がりつつある. だからこそ, 動物にも環境にも守るべき大切な対象としての意味付けを行う.
求義的な死は動物の中にも存在する. 死んだ群れの仲間を悲しむ行動がそうだ. 死んだ対象が生きていた最中の記憶を死んだ後も持つからこそ悲しみの感情が現れるてくる. 人間も同様の行動を行うが独特な方法で死に対する意味付けを行なっている. 日本人の先祖という概念は, 現代では自分が知っている親戚の死しか対象として認識されなくなっているが, 本来は村全体で村に関わりのあった先祖代々の人々を指して先祖と捉えていた. もし, 子供も両親もいない中で死んだものがいたとしても村が代わりにその方を奉っていた. お盆は村に関わりのある何世代も前の祖先が村に帰ってきて, 村の人々と共に暮らすという行事であった. このような先祖という概念からは悲しみの側面が薄れ感謝の意味合いが強くなっている. 人間は人間だけでなく動物の死にも意味を与える. 北海道にいる先住民族にアイヌ民族がいる. アイヌ民族は自然を尊重し, 熊を神として見立てている. アイヌ民族には熊送りという儀式があり, 熊を狩猟した時にはその神の化身である熊が元の神々の居場所に戻れるように熊を川に流す. ここには熊の死を単なる食料や生活の糧としてみる以上のものが挙げられている. このように死を単なる無機的なものではなく, それをみる対象にとって何らかの意味を持つものとして捉える死を求義的な死と呼ぶ.
生物学的な死と求義的な生死の使い分け
これまで生物学的な死と求義的な生死という用語を定義したがこれらの言葉を用いることによって次のような問いに答えることが出来る. 医療者の人や国際的に活躍したいと考える人ならば一度は持ったことのあるだろう疑問 “なぜ発展途上国の人々は生まれながらに生きるのに厳しい環境に居て, 亡くなっていかなければいけないのか?”を例に考えよう. この質問に対して, 彼らの死を生物学的な死として捉えれば, 彼らは厳しい環境に生まれ, それを打破するだけの適応的な能力を手に入れられなかったから死ななければいけなかったと言えるし, それ以上のことは言えない. なぜなら人間の寿命のスケールでは人の死が将来的な進化の観点から見たときに適応的であったのかどうかは判断することが出来ないからだ. ここで僕は発展途上国の人々が人間的に劣っているということは一切意図していない. 先進諸国よりも発展途上国の人々は生存に厳しい環境にいるのだから, その環境を打破するだけの特別な能力が必要になる, ということを意味している. 次に彼らの死を求義的な生死の観点で考えと, 上記のような問いを発することが求義的な死の特徴であるといえる. 求義的な生死の本質はそこに明確な問いの答えがあるわけではなく, その問いを発して人間一人の人に何らかの意味があるはずである, だからこそ行動をすべきだと考えることにある. では, このような見方をすると何が良いか. その一つの答えとしては上記のような問いを発することによって対象を助けようとする. その過程の中で人は協力や日常とは違う行動, 制度や法律などに疑問を投げかけるかもしれない, そうすることによって新たな概念や技術が生まれるかもしれない. そして助けようとした対象が救えるような社会が出来上がる. そのような社会の方が種としての存続に有利である. これが求義的な生死が湧き上がってくる理由なのだろう.
ただ, この求義的な生死という説明によっていつも人を助ける行為が生まれるとは限らない. 第二次世界大戦の最中ではヒトラーは優生思想に基づいてT40作戦によって障害者を殺し, ホロコーストでユダヤ人の大量虐殺を行った. この事例は求義的な生死の意味付けとして対象を排除すべきであるとみなしたことにある. 結果的にはヒトラー率いるドイツ軍は第二次世界大戦の下では敗北を喫してしまったが, ドイツ国民は選民思想によって国として一つにまとまったこともまた一つの事実である. 人は世界の人々を救わなければいけない使命感によって四六時中動けるわけではない. もし, 世界のどこかで奪われる理不尽な命一つ一つに心を痛めていたら, その人は心を病んでしまうだろう. 求義的な生死における意味付けが強くなるのは, やはり身近な自分と関わりのある人たちからである. そのために自らがいる共同体を救うためにそれ以外の共同体を排除するような行為は歴史を振り返ればごく溢れた行為である. また, 人が生物であるという前提が正しいとするならば, 他の生物の生存方法を眺めてみるといかに同種の中で争いが激しいか感ずることができ, 人間も例外ではないことを感じられる.
宗教はなぜ求められ続けていたのか
今までで生物学的な死と求義的な生死とはどのようなものかみてきた. この二つの用語を対比してみると, 宗教は生と死を, 生物学的な死と対極的な意味を持つ求義的な生死として取り扱おうとしていることが分かる. 生物学的な死はダーヴィンの進化論の枠組みで捉えられる死であり, 種全体の存続に対して個体レベルの死は, その個体が生きていた必然性はなく, その時々に応じた環境への適応度によって測られる. しかも, その適応度が測れるようになるのは少なくともその個体が生きている間には訪れない. そのため, 極端な言い方をすれば生物学的な死は個体の死そのものに対しては確固たる意味付けをすることができない. では, 宗教は生と死にどのような意味を与えるか. 宗教は人間それ自体に意味があることを教えている. 特にこの傾向は教義が明確な一神教の宗教によくみられる. ここでは浄土真宗とキリスト教を例に宗教が人間それ自体に意味があることを教えていることをみていく.
浄土真宗は13世紀に親鸞によって開かれた. 阿弥陀仏を介してこの世とあの世を理解しようとし, 修練を積んでいき, 念仏を唱えると死んだ後に極楽浄土に行けることを教える. (余談だが, 法然の浄土宗は本願念仏を唱えれば極楽浄土に行けることを保障する) 浄土真宗の教典として用いられている, 親鸞によって書かれた正信偈の一説に“大悲無倦常照我”という一節がある. この言葉は, 阿弥陀仏の慈悲は, 凡夫の思惑とは一切無関係にいつでも凡夫を照らし続けている, 気づかないのは凡夫の方だ, という意味を含んでいる. 阿弥陀仏とは, 人間の認識を絶した真理そのものを指す. だが, 人間の認識から超越した存在ならば信仰することも出来ないため, 人間によって認識できるように仮初めの形として顕現した存在を指して阿弥陀仏という. ここで着目したいのは, この言葉では阿弥陀仏がこちらの信仰に関わらず, 我ら人間を見守ってくれているということだ. つまり, 浄土真宗では阿弥陀仏が人間を見守ることによって人間という存在に意味を持たせようとしている. この構図では求義的な生に対する意味付けを宗教が行なっている. 求義的な死に対しては信仰をすることによって極楽浄土にいけるということを持って行なっている. 宗教的な考え方の元では信仰をする人は神や超越的な存在によって自らの生と死に対して強い意味付けをしてもらっている. これは生物学的な死から逃れるために, おそらくは生存戦略として生まれてきた求義的な生死が望む意味付けに非常に合致しているのだ.
次にキリスト教も, 求義的な生死が望む意味付けを与えていることをみていく. キリスト教は旧約聖書, 新約聖書を教典としイエス・キリストが与えてくれる無償の愛を信ずる宗教である. なぜ, 旧約聖書, 新約聖書を信ずるかというと, キリストによる証がポイントとなる. 我々は神の子であり, 我々は神に対して罪を背負っている. イエス・キリストは我々の前に人の形で現れ, 人々により虐げられ, 十字架に磔られ, 殺され, 三日目に復活するという形を持って人々への途方もない愛を示した. だからこそ, イエス・キリストが行った行為や言葉が記された旧約聖書と新約聖書を真実として信じているのだ. そこで新約聖書の中から一節を紹介する. 使徒言行録第2章27-28節より, 「あなたは, わたしの魂を陰府に捨てておかず, あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない. あなたは, 命に至る道をわたしに示し, 御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる. 」 この言葉の中には, イエス・キリストが人の生と死に対して働きかけをしてくれることを示している. 前半部分では, 私たちが死んだあとの魂の行き先について, イエス・キリストの元に行けることを保障しているし, 後半の部分では生きている間, イエスを信仰すれば道は自ずと示されることを教えている. この部分はまさに人の生と死に神が崇高なる意味付けを行い, その人の価値を保障していると言える.
全ての宗教が人の生死に意味付けを行っているわけではない. 例えば, 17世紀後半から18世紀前半に盛んになった元禄文化での浮世思想では, 現世は辛く, 悩みが多く, そのようなしがらみから解放されるには現実逃避をする以外になく, 現実を俗世的に生き続けようとしていた. このような考えは生や死から逃れることをやめ, 死を受け入れることをしている. 宗教を信仰しないで生きることにみられる死生観でもある. だが, 多くの一神教は神や超越的な存在を想定し, それが生きている間も死んだ後も神がその存在に何らかの働きかけを行う形を持って求義的な生死に見合うような生と死を提供している. この構図は生物学的な死の意味合いと対極的な意味を持っていることが分かる.
終わりに
以上, 死には2つの側面があることを生物学的な死と求義的な生死という用語を定義することをみてきた. これらの用語を通して, 人間が持つ死に強い意味付けをする特徴があることが浮き上がってきた. また, 生物学的な死と求義的な生死を対比させることによって改めて人として大切にしていかなければいけない部分が明らかになったと思われる. 宗教が保障しようとする“人それ自体に価値がある” という見方は, 宗教だけに留まらず, 日本国憲法の個人の尊重の部分で存在価値の保障という形で, 持続可能な社会開発(SDGs)の中では“No one will be left behind” という言葉によって守ろうとしている. 昨今のコンピューター技術の発展により人間だけの意義が薄くなってきたり, トランプ政権の誕生から始まる極右主義などの動きが活発化し世界情勢が不安定になる中だからこそ, 今一度, 人間として何を大切にすべきかを検討する必要があるように思われる. ここでは死をじっと見つめることにより, 人間特有の意義を見つける試みを行った.
———-雑感(`・ω・´)———-
この文章作成に手伝ってくれた武闘で石を使う人, 七福神がいる田んぼ持ってる人, 近くに藤を埋めてる人, ありがとう!
Festina lente (ゆっくり急げ)を教えてくれた先生も参考にさせてもらいました!
参考文献
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John Steinbeck著, 黒原 敏行(上), 怒りの葡萄, 2014, ハヤカワepi文庫
John Steinbeck著, 黒原 敏行(下), 怒りの葡萄, 2014, ハヤカワepi文庫
伊藤計劃, ハーモニー, 2014, ハヤカワ文庫
ヘルマン・ヘッセ著, ヘルマン・ヘッセ全集(12)シッダールタ・湯治客・ニュールンベルグへの旅・物語集8(1948-1955), 2007, 臨川書店 よりシッダールタ, 湯治客
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