キリスト教徒と科学者の世界の誕生を巡っての口論

モルモン教徒の宣教師の方と食事する機会があった. きっかけは道端で声かけられて食事に行く約束をしたからだ. その際に科学と宗教の観点からみた世界の始まりについて面白い見方が出たのでそれについて書いていく.

 その前に軽くモルモン教について触れておく. (のちの議論にはどのキリスト教の宗派であろうとも影響はない. ) モルモン教はキリスト教の一つの宗派で19世紀にジョセフ・スミスによって作られた宗教だ. ジョセフ・スミスは溢れかえる教会の中でどの教会を信ずればいいか分からなくなっていた. だが, 彼の前に預言者モロナイが現れ彼自身が神の御言葉を受けて正しい教会を開くべきだと述べた.モルモン教は他の宗派に比べて特色ある戒律を掲げている. 例を挙げれば, モルモン教徒はタバコ, 酒, コーヒー, 紅茶を食べ飲みすることができないことや宣教師の方は21時までに家に帰り, 6時30に起きなければいけないなどだ.

 では本題に入っていく. 今回, 僕が話をしたモルモン教徒の宣教師に関わらず, 敬虔なキリスト教徒ならば皆, 聖書に書かれている内容は全て真実であると捉えているか, 捉えようとしている.聖書に書かれている内容を全て真実とすると, 科学的観点からと真っ向から対立する箇所がある. 旧約聖書の創世記の箇所, すなわち, 世界の誕生に関してだ. 旧約聖書の中では世界は神が7日間で作られたと書かれている. そのため, 敬虔なキリスト教とは世界が数万から数百万年前にできたと考える. 今の日本の教科書にはなかなか書かれない内容だ. だが簡単には, 神が世界を創造したという仮説は完全には否定できない. それは, 以下のキリスト教徒と科学者のやり取りを通して明らかになる.

キリスト教徒「旧約聖書によれば世界は神が創造した. 」
科学者「そんなわけはない. 気象学, 地質学, 考古学, 生物学の知見から地球は46億年前にできたことが示唆されているのだ. 」
キリスト教徒「生命が誕生する確率, 人類が誕生する確率は限りなく小さい.  それにもかかわらず人類が存在していることは神が存在していることの証左ではないのか. 」
科学者「我々は往々にして確率を自らの生きるタイムスケールで捉えてしまう. 人の生きる数百年のスケールではなく, 数億から数十億年のスケールで捉えれば, 生命や人類が誕生する可能性は十分にあり得るのだ. また, 確率が低いからといってその出来事が起こらないとは決して言えない. 」
キリスト教徒「確率が低いからといって否定することはできない. ならば, 神が世界を創造したという仮説もありうることだ. なぜなら神が世界を創造した際に, 世界の秩序を保つため, あたかも世界が46億年前に誕生したかのように創造したかもしれない. 我々は神が創造した世界の痕跡を見て46億年前に世界が出来たといっているにすぎないかもしれないのだ. 」
科学者「確かに君がいう仮説は否定できない. だがオッカムの剃刀によれば複数の仮説があった場合最も単純なものが正しい. だから神が世界を創造した際に我々が現在持っている証拠の数々が発見されるような形で世界を創造したという仮説はあり得たとしても, ビックバンから始まり生命の創造や自然界の法則まで単一存在が創造したと考えるより, 化学反応の連鎖により現象が進行していったと考える方が妥当である. 」
キリスト教徒「オッカムの剃刀の問題点は, 今ある証拠の中から最も妥当な仮説を選択する考え方という点だ. 往々にして証拠が増えれば増えるほど仮説は複雑になっていく. 現状では確かにオッカムの剃刀は科学的知見を支持することとなる. さらに神は万能であり, この世界の中でいくら証拠を探したところで矛盾が一切なく46億年前に世界が誕生したようにしか見えないかもしれない.  だがもし科学がさらに発展していき, 神の創造の形跡を発見することができれば, オッカムの剃刀は途端に旧約聖書を支持することとなるのだ. 」

上記の議論のポイントは次のようにまとめられる.

・現状では, 科学者側が提供する46億前に地球が誕生したという説が正しそう.
・証拠がさらに積み上がればキリスト教との説が正しいと科学的な枠組みで語られる日が来る可能性はあるということ.
・どちらも仮説を提示しているだけで確固たる証拠はない. 極端な言葉でこの論争を表現すならば科学原理主義者とキリスト教原理主義者の論争だといえる.

科学原理主義者は, 科学によって得られる知見で全てが説明できると信じ切ること. 科学が倫理や道徳まで教えてくれると信じていることを皮肉った言葉でもある. キリスト教原理主義者は聖書に書かれていることが全て真実であると頑なに信じる人を指す.

 モルモン教の宣教師の方の発言で印象的だった言葉がある.それは「科学か宗教どっちの説を取るか, それは究極的な選択だ」という言葉だ. 僕が受けた印象では彼は神の言葉を信じているが, 科学はそれでも協力な説得力を持って押しかけてくるためどう解釈すれば良いか迷っているように感じられた. だが彼を責めることは決してできない. 現在, 多くの人が科学を盲信するようになっている. 宗教が信ずるに値しない荒唐無稽な論理に自然に思えてしまうほどに.  大きな理由としては, 科学が宗教では決して与えてくれなかった恩恵を数多く提供しているからだろう. 神に祈るだけでは, お腹の飢えも感染症を防ぐこともできない. だが一度科学信仰者になるだけで肥満が原因で死ぬだけの食料と口から食べ物が入らなくともいきられるだけの医療と世界中の人と簡単に繋がれる小さな箱を提供してくれる. そういうわけで, もはや科学の恩恵とは無縁にはこの世では生きられなくなっている. あまりにも多くの科学の産物の恩恵を享受しすぎているからだ.

 ここでは, まだ疑問の余地を挟みやすい事例を取り上げ科学信仰の万能性に疑問を挟むに留め, 科学と宗教の違いや役割, 棲み分けについては立ち入らない. 最後に指摘したいことは, 科学は検証できないことには口をつぐまざるを得ない. それ故に倫理や道徳, 人生の生きる目的について何も提供できない. だからこそ, それらを考える上でのフレームワークは科学以外に求める必要がある. 僕はその一つのフレームワークが宗教であると考えている. それと宣教師の方の「科学か宗教どっちの説を取るか, それは究極的な選択だ」という言葉は個としての意義が希薄になってきている世の中での信仰のジレンマを如実に表しているようだった.

———-雑感(`・ω・´)———-
モルモン教の宣教師の方, 声をかけてくれてありがとう!宗教を軸に生きている人の考えを聞けたのはとても貴重な体験でした!

考察
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