ガラス玉遊戯の名言|「踏み越えよ」と「目覚め」

この記事では「踏み越えよ」という詩と「目覚め」とは何かに関する記述を紹介する. 「ガラス玉遊戯」がどんな小説かについて軽く述べた後にその二つに関して記述していく.

ヘルマン・ヘッセがノーベル文学賞を取る切っ掛けとなった長編小説. ガラス玉遊戯は, 学問と芸術が全て抽象化, 統合化されたもの. 精神的に高尚でエリート中のエリートが取り組む至上最高な学問を指した架空の技巧や芸術である. 本文中では, 次のように書かれている.

生の全体像は, 肉体的な生であれ精神的な生であれ, 動的な現象であり, ガラス玉遊戯は結局その美的な側面だけをとらえるにすぎない. ただし, その側面を主として律動の過程というイメージとしてとらえるのである.

この小説は, ヨーゼフ・クネヒトという人物に関しての伝記書という体裁を取って書かれている. 冒頭の引用で書かれた, 歴史家にとって難しいと言われている行為を, この小説の中で達成しようとしているように思われた. その言葉も引用しておこう.

…なぜならば, ある点においては, そして浅薄な人々にとっては存在する事物よりも, 存在しない事物を言葉によって表現することの方が容易に無責任にできるかもしれないが, 敬虔で良心的な歴史家にとっては, まさにその反対である. すなわち, その存在が証明されえず, 本当らしくもないが敬虔で良心的な人々が, いわば存在するものとして取り扱うというまさにそのことによって, 存在に生誕の可能性に一歩近づけられるような事物ほど, 言葉による表現が難しいものはなく, それでいて人々にはっきりと示してやる必要のあるものはない.

この小説では, ヨーゼフ・クネヒトの幼少期から晩年に到るまでの出来事と会話, 心理描写について書かれている. その節々において人生や社会に関する世の中の真理をつくことが書かれている.
「踏みこえよ」という詩は, ヨーゼフ・クネヒトが学生時代に書いた詩でクネヒトが過ごしてきた各段階がどのような意味を持っていたかを表す詩である.


私たちは朗らかに場所を次から次へと通り抜けるべきである.
どんな場所にも故郷のように執着してはならない.
世界精神は私たちを縛りせばめようとはしない.
世界精神は私たちを一段一段と高め, 広げようとする.

次に目覚めに関して. クネヒトが晩年においてある種の「目覚め」を感じた, という記述が度々小説の中で出てくる. 僕はこの「目覚め」に関する説明がこの小説のハイライトであったように感じた. 丸々一段落引用させてもらう.

似たような思想あるいは夢想が, 瞑想のあとの余韻となって彼の心に浮かんだ. 「目覚め」の際に重要なのは, 真理や認識ではなくて, 現実と, それを体験しそれに耐えることであると思われる. 目覚めにおいては, 事物の核心に, 真理にいっそう近く迫るのではない. 事物の目下の状況に対する自我の態度を把握し, 遂行し, あるいは耐え忍ぶだけなのだ. その際に見いだすのは, 法則ではなくて決意である. 世界の中心ではなくて, 自分自身の中心に行きつくのだ. それゆえ, その際体験したこともほとんどが伝達できず, 奇妙なほど口に出したりまとめたりすることが難しいのだ. 生のこの領域のことを伝達するのは, 言語の目的には入っていないように思われる. それでも, 例外的にある程度理解されるとするなら, その理解する人は同じ状況にいる人であり, 共に悩む人, あるいは共に目覚めつつある人なのだ. フリッツ・テグラーリウスは, 時折, ほんの少し自分を理解してくれた. プリーニオの理解は, それより先まで達した. ほかになお誰が挙げられようか?誰もいやしない.

この「目覚め」という表現は僕の中では, 人生における自分のやりたいことや, 自分の使命, 人生の目的といった表現に準ずる言葉のように感じた. そしてその感覚を言い表した言葉が心に響くような表現だと感じる.

———-雑感(`・ω・´)———
長編小説という名にふさわしいボリュームに加え物凄い内容が濃いです. でも読む価値は凄いあった. 興味があったら読んでみてください.

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