ベイズ推論の名言 | The intensity of the conviction that…

I cannot give any scientist of any age better advice than this.
The intensity of the conviction that a hypothesis is true
  has no bearing on whether it is true or not.

Peter Medawar (1979)

拙訳すると,
“私はどんな年齢の科学者に対しても, これ以上の良い助言を知らない.
ある仮説が真実であるという確信の度合いは, その仮説が真実であることと何の関係もない.

この文章は(1)の文献でみつけた文章. ベイズ推論を捉える上で大切な言葉だと感じた. 我々は確信と証拠を勘違いしやすい. 多くの証拠が集まってくるとあたかもその仮説が真のように思えてくるが, 科学はある仮説が本当に真あるということはとても難しい. この言葉, ひいてはベイズ推論は確信と証拠を明確に分ける. ベイズ推論では決して確信を証拠だとは見なさず, その確信がどれだけ確からしいのかを述べるに留めることによって科学的妥当性を担保する.

———-雑感(`・ω・´)———-

科学的思考法は, 事象の因果関係がどのようにされれば正しいかとされるかを考える思考法をいう. 代表的なものに, 演繹法, 帰納法, 反証法, それに並ぶ形でベイズ推論が入ってくる. ここでは演繹法, 帰納法, 反証法について述べた後で, ベイズ推論がなぜ必要になってくるか書く.

演繹法は, AならばB, BならばC, CならばD… と続けていく. 前提が正しいとした上で論を出来るだけ敷衍していく. 自然科学の中では極めて基礎的な能力になるが演繹法を進めすぎることは誤りを招きかねない. 例えば, AならばB, BならばCと言えた時に, AならばCと言って良いのか. これは, 誤りであることがある. なぜならば, 言葉の上では論理が通っているように見えても条件が成立する状況がそれぞれの言説で違う場合がある. (Aならば,が成立する状況と, Bならばが成立する状況.) 良い例がある. それは 「Woman = Evil 」の等式を証明する言葉遊びだ.
1. “To find a woman, you need Time and Money.”より, Woman = Time × Money.
2. “Time is Money.” より Time = Money
3. “Money is the root of all evil.” より Money = √Evil
等式1~3. より Woman = Evil が証明できる.
だが, 本当にこの等式は同じタイミングで成立するのだろうか. まず, 2.の等式は1.と3.と直ぐに違うと言えるだろう. ここに女性は関係せず, ただ時間は尊いものと述べているに過ぎない. よくよくみてみると, 1.と3.も前提が違うことが分かる. 1.はまず女性を見つける段階であり, 女性に対してポジティブな認識を持っているはずだ. (ちなみに, Time and Money と言っているのだから, Time + Money じゃないのかという疑問に対しては, Moneyを獲ようとするにはTimeも必要だからTime × Moneyだ!と適当に返しておく. ) 3.は1.の文脈で言うならば, 女性に振られたか, 付き合った後の話だろう. 振られたならばそこまでに費やしたお金をみて, また, 付き合ったならば交際費を省みて Money is the root of all evil! と言うのだろう. 以上の話を考えれば, AならばB, BならばC 従って AならばC と示すことは単純でないことが分かる. 演繹法を用いる際にはなぜそういう言えるのか前提に気をつける必要がある.

帰納法は, フランシス・ベーコン(Francis Bacon)のNovum Organum(1620)で初めて登場した. 事象から論理的に推論し, 結論として一般的, 普遍的な事実を導く方法だ. 例えば, 黒いカラスを1000羽見つけ未だ他の色のカラスを見つけていないから, カラスは黒いと結論づける. と言ったプロセスを指す. 帰納法は我々に多くの可能性を提示してくれるが, ある事象の因果関係が常に成り立つことを保証してくれるわけではない. カラスの例では, アルビノのカラスが存在するわけで一羽でもカラスが白ければこの因果関係は崩れてしまう. 我々が知っている諸知識でさえ, 次々に反駁されていく. 昔の人は時間は絶対性を持っていたと考えていたがアインシュタインの相対性理論によって崩れた. 人は完全に理性的な生き物である, という考え方も昨今の分子生物学の発展により否定された. そして, 数学は美しい完全な体型であるかと思われたが, ゲーテルの不完全定理(僕は嘘つきだ,という言葉に代表される)によってそれも否定された. このように帰納法は多くの因果関係に関する仮説を作り上げるがその仮説の正しさを証明するものではない.

改めて仮説が真であることの証明の難しさ, ひいては不可能性を指摘したのが反証法である. カール・ポッパーの「科学は否定することしか出来ない」という言葉はこの事実を端的に述べたものだ. カール・ポッパーは科学的妥当性の担保のために, 仮説には反証可能性が必要であると述べた. 反証可能性とはその仮説が真でないとされる可能性が存在することである. “カラスならば黒い”という仮説は, 一羽の白いカラスが見つかれば否定される. だが, “死んだならば黄泉の国に行ける” という仮説は, 死ぬということが生に対して不可逆的だと(現段階では)思われているため仮説としては成立しないことになる. つまり, 我々は, ある仮説に対しては反証することでしかその妥当性を説明しえない. つまり, 多くの試行がその仮説や,その仮説を支持するような補助的な仮説に対して反証をした結果, 示したい仮説が反証されなければ恐らく正しいというところまでしか言えない. これが, 反証法の限界である.

反証法には問題がある. それは, 仮説が反証されなかったというその事実がどれだけ確からしいかである. 例えば, “(地球上では,)太陽は東から昇り, 西に沈む.”という仮説は疑う点が非常に少ないように思われる. では, “今年中に東京で大地震が起こる.”という仮説はどうだろう. もちろんこの仮説は来年になれば正しかったかどうか判断できる. だが, 我々はこの仮説が真であるかどうかある程度の可能性を持って行動をしたい. この例は実利的な話だが, 科学の世界でも,ある仮説の妥当性がその仮説が依拠している仮説の確からしさに左右される. そこで, ベイズ推論である. 妥当性が高いものは真実であるわけではない, そこにどれくらい高い蓋然性があるのかを見極めていくことがベイズ推論である. 全ての仮説に蓋然性を示すことが出来れば我々は仮説を比べ, どちらが確からしいか議論することが出来るようになる. もちろん, 冒頭の言葉にある通り, 蓋然性が高いからと言って我々はその仮説が真でいうことは出来ない. 時には非常に蓋然性が高い仮説が反証されることもあろう. だが, 反証法よりも一歩進め, 反証出来ないからといって仮説を等価値に扱うわけではなく, その中で確からしさを含めることにベイズ推論の利点が存在する.

まとめれば, 演繹法と帰納法は仮説を立てるのに, 反証法は仮説を否定することによって, ベイズ推論は否定できない仮説に確からしさを付加する科学的思考法と言えるだろう. 共通することは, どの思考方法でもある因果関係に関する仮説が厳密な意味で真であることを担保できないということだ.

参考文献
(1) Kenneth J. Rothman et al., Modern Epidemiology, 2012, 1st, LWW, p32.

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